自分のBlogを振り返る

Proust Cafeを開設してから、かれこれ1年半が経った。

開設当時は、Movable Typeのバージョンもまだ2.6やそこらで、英語版しかなかった為、Milano::Monologさんところの、日本語化パッチをあてたりと、随分と手間がかかったものだ。

去年の11月まで使用していたInfoseekのサーバも、当初はImage::Magickすらインストールされてない状況で、サムネイル画像の作成が出来なかったし、MySQLなんてなかったので、Berkeley DBを使っていた。

それにしても、この2年ほどで"Blog"をめぐる環境は大きく変化してきた。正直、最初アメリカで流行っているという噂のBlogの存在を知ったときは、日本ではその本来の意義であるところのジャーナリズム精神は失われて、ただの日記ツールに成り下がるだろうと予測していた。日本におけるBlog創世記には、確かに日記系サイトしか見受けれらなかったが、最近では本格的に、「一般市民参加型ジャーナリズム」としての地位も築かれつつあるように思う。

さて、自分のBlogの話。このBlogは、開設当初と現在とで、記事の文体や趣向が少しずつ変わってきている。開設当初は誰も閲覧していない=好きなことを、好きな言葉で書きなぐるだけでOKだったのが、今となっては明らかに「読者」を意識した文章になっている。

その理由は、ディレクトリ系の大手ポータルサイトへ登録されてしまったことによるアクセス数の増加や、筆者としての自分の立場が変化(リーマンから協力隊員)などにより、自分の書く文章にも少なからずの「責任」が発生し始めているためである。

以前、ある人のホームページで私のBlogがこんな風に紹介されていた。
「最近文章が硬くなってきて、昔のような勢いがなくなったように思う」

これは、なんとも的を得た指摘だ。なぜかというと、最近私がこのBlogにエントリーする際には、インターネット上の市民オンブズマンによって、国民の血税の用途がアセスメントされているという潜在意識が常につきまとうようになっているからだ。そんな意識を持ったまま書いた文章は、オンブズマンへの公開文書としての様相を呈してくるため、必然的に硬い表現や内容が多くなってくる。

このようなBlogの変遷は、ある意味自然な流れなのだろう。書き手の意識が変われば、文章も変わる。文章が変われば、読者層も変わる。読者層が変われば、書き手の意識も変わる・・・・、という無限連鎖の成長過程を辿って、今日のProust Cafeがあるのだ。

文章は生き物だ。なぜならその書き手は、体内にどくどくと血を通わせている生き物だから。これからも、このBlogはどんどん変化していくのだろうが、その向かう先は誰にも分からない。そこがBlogの面白さなんだろうし。