四季

さすがに一年以上もフィリピンにいると、季節感が無くなってくる。

日本は今頃夏休みで、みんな「暑い暑い」とうなだれているんだろうけど、フィリピンは一年中夏だ。毎日「暑い」と愚痴っていても体力の無駄なので、今ではもう不満を垂れなくなった。部屋ではパンツ一丁でうろうろしているし、水シャワーが当たり前。最近はクーラーを不快に感じるようになり、扇風機しか使っていない。

一説には熱帯気候の諸国が経済的に発展しないのは、人間が快適且つ効率的に仕事が出来ないからだといわれている。なるほど俺の脳みそも最近暑さでとろけ気味なのだが、それはあくまで貧困の一要因とはなろうが、根本原因ではない。

日本には四季があって、それぞれの季節に特有の意味がある。流行の歌にもよく歌われているように、春に出会って夏に燃え上がり、秋は人恋しくなり冬は悲しみに閉ざされる。また季節を題材とした芸術作品も日本には多くある。季節感は日本人の文化や心に深く染みついており、「日本人」たる人種を語る一要素と言えるだろう。

時折、フィリピンに四季という概念が無いことの影響について考える。四季があることの善し悪しはこの際置いといて、フィリピンに四季がないことによって、どんな文化的な影響が現れているのか?

一例として、フィリピンにはSaleというイベントが無い。日本では年末や7月にどこのデパートでも行われている、あのSaleだ。正確に言えばSaleという札を掲げて安売りをしている店はちらほら見かけるが、日本のそれとは意味合いが違う。日本のSaleはそのシーズンの売れ残りを、季節の変わり目を機に一掃してしまおうという戦略があるが、フィリピンのそれは気まぐれにやっているとしか思えない。もちろん、ショップとしての戦略はあるのだろうが、それが季節に起因するイベントでないことは確かだ。

フィリピンに四季があったらとか、日本に四季が無かったらなんてことを考えてみるが、そうなるとフィリピンは今のフィリピンであるはずは絶対無くて、日本も今のような文化の国にはなっていなかっただろう。善くも悪くも、季節というのはその国の文化や慣習に多大な影響を与えているのだ。

フィリピン人に雪を見せてあげたい。そう思うようになったのは、最近になってからのことだ。

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