空気の主張

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。 [檸檬 (梶井基次郎) の冒頭より]

blog-photo-20060420.jpg私の家はラグナ湖に臨む緩やかな丘の斜面に立っており、湖から運ばれてくる穏やかな風のおかげで比較的空気の循環は良い。キッチンで炒め物をしても油臭さは残らないし、タバコの煙も自然に湖側の窓から山側の窓へと流れ出て行く。換気扇などは一切必要無い。

しかし、この空気の流れの良さが時として私をひどく苦しめる。

まだ日も昇らないうちからかき集められた生ゴミや菓子の袋、紙くず。つまりはこの世で「不要」の烙印を押された一切のものが丘の下の空き地に集められ、そして火を放たれる。

「不要」の烙印を押されたものたちはすぐさま「煙」へと姿を変え、ラグナ湖の風に乗って私の家を燻し始める。はじめはねっとりと四方の壁にまとわりつき、内部の様子を伺う。そして、家内が未だ自身で満たされてないと知るや否や、そこらじゅうの窓という窓からじわりじわりと入り込んできて、徐々に透明な世界を蝕んでいく。

白い塊に侵食された家の内部では、人間は「目視」することも「呼吸」することも許されない。そして、己の棲家を占領された人間達は、おずおずと外へ出て行くしかなくなるのだ。

普段は私の体を洗い流すかのようにサラリと流れすぎていく空気たち。体が透明であるが故にその存在が意識されることはないのだが、人間の生命活動にとって欠かせないものであることは事実である。にも関わらず、誰にも感謝されることなく、ただそこにあることを常に強要されている。

しかしその空気たちが悪魔へと変貌した途端、つまりは燃焼活動を通してゴミとの融合を果たし、「煙」という仮の姿を与えられた途端、彼らは「そこにあって当然のもの」から「忌み嫌われるもの」へと変化する。

「煙」への変貌は、空気が人間に対して何かを訴えかけるための唯一にして最も効果的な手段なのかもしれない。衣服を身に着けないことには人間に認知してもらえないし、臭気を発生させないことには嗅覚に訴えかけることもできないからだ。

問題は、人間が彼らの意見に耳を傾けてやることが出来るかどうかだ。彼らも好きで「煙」になっているわけではないのだから。

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