もうひとつの5号報告書

JICA提出用の5号(最終)報告書がまったく書けない。

正直一文字も書けないでいる。これまでの2年間で、ことあるごとに「あ、これは最終報告書に書こう」というようなアイディアが沢山浮かんでいたはずなのだが、いざ書こうと思うと全く思い出せない。

というよりむしろ、そういう次元の問題ではなく、何をどう書けばいいのか全く想像できないといったほうが正しいかもしれない。「スランプ」とも違う、「筆が進まない」とも違う。なんだか頭が真っ白で、書くべきことが何も出てこないといった感じなのだ。

なんだか部屋の中の空気もこもりかえっていて少々居心地が悪かったので、思い切って散歩に出かけることにした。時間は深夜12時半。思い返してみれば、こんな時間に一人で散歩に出かけるなんてことは、フィリピンに来てから初めてのことだ。

タバコと鍵だけ持って玄関の扉を開けると、辺りはしんと静まり返っている。そして何の気なしに空を見上げると、そこには満点の星空が広がっているではないか。日本でみる金星に値するくらいの明るさを持った星たちが無数に散らばっており、その光だけで辺りを認識できそうなほどだ。

通りに出てからどこに行こうかとしばし考えるも、とりあえずいつもと違うところに行ってみたかったので、学校とは逆方向に歩みを進めてみた。歩き始めるとほどなく後ろからスタスタッという軽快な足音が聞こえてきた。振り返ってみるとそこには白い小さな野良犬が一匹、驚いたようにこちらを見つめている。3秒ぐらい目を合わせた後、また私が前に向きなおし歩みを始める、すると彼も同じようにスタスタと歩き始める。「こいつ俺についてくるつもりだな?」と思い、再度振り返ると、彼もピタっと歩みを止めてこちらを見つめてくる。まるで、二人でだるまさんが転んだをやっているみたいだ。なかなか面白いので、ちょこっと歩いては後ろを振り返り、またちょこっと歩いては後ろを振り返りと、しばらく遊んでみた。出来れば散歩の間ずっとついてきて欲しかったのだが、彼のほうがすぐに飽きたらしく、わき道にそれて行ってしまった。残念。

しばらく人も犬もトライシクルもいない道をゆっくりと歩き続ける。聞こえてくるのはカエルと虫の鳴き声だけ。子供のころ、夏休みに行ったばーちゃんちの感覚がよみがえってくる。適度に湿ったぬるい空気が体を包み込み、日中遊びつかれた体に休めと催促をしているようだ。こうなると、既に私の頭の中では、今の自分が浴衣を着て蚊帳の中にいるような錯覚に陥ってしまい、現実と想像の境界線がなくなってくる。

そんな風流な余韻に浸っていたのもつかの間、急に辺りが騒がしくなってきた。暗がりの中にぽつんと一つ街灯があり、その下に数人のガキどもが座り込んでいる。ガキの一人がギターを片手になにやら弾き語りをしており、他の連中はそれを聴くともなく聴いている様子。特段上手くもないが下手でもない。言うなれば、その時、その場所にぴったりの音色がそこにあり、完璧に辺りの環境と同化している。別にそこに彼らがいなくてもおかしくはない。そして、彼らがそこにいても、これまた全く違和感がない。私にとっては風景の一部というか、空気のような存在に感じられ、思考をさえぎる性質のものではなかった。

ずっとまっすぐに歩いてきたので、そろそろ右か左に曲がりたいなと思い始めた頃、丁度いい具合に十字路に差し掛かった。右に行けばハイウェイ、左に行けばラグナ湖だ。私は何の迷いもなく舵を左に切り、黙々とラグナ湖目指して歩き始めた。そしてほどなくラグナ湖に突き当たると、タバコに火を付けしばし小休止。

眼下には、これ以上ないほどの静かな波が寄せては返してを繰り返している。そして目線を少し上に上げると、対岸に浮かぶマニラの薄明かりが目に入ってきた。なんだか面白そうなので、再度自分の手元から奥のほうへと順番に目線を移してみることにした。タバコ、サンダル、アスファルト、砂浜、波、湖、街の明かり、星空。たった180度の視界の旅だが、世界一周旅行となんら変わりのない満足感を得られた気がした。

結局、今ぐるっと見回した世界が自分が2年間体験してきたもの全てであって、これ以上どうにも説明しようがない。

ん?5号報告書?

今ので全てですが、何か?

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