援助の偏り

「ある子供が心臓移植手術を受けるために渡米した」というニュースをやっていた。日本では「15歳未満の臓器提供」が認められていないため、アメリカで手術を行うことになったようだ。

手術費、滞在治療費、渡航費に莫大な費用がかかるということで、救う会を中心として活発な募金活動が行わた結果、現時点で2億1400万円もの寄付金が集まったという。

幼い子供の生死に関わる問題、しかもその原因が難病ともあれば誰もが救いの手を差し伸べたいと思うのは当然のことだろう。街頭でこのような子供を救うための募金活動をやっていたら、自分も少なからずお金を入れていたかもしれない。

しかし2億1400万円という募金額を聞いた瞬間、私の頭にはふと「援助の偏り」という言葉がよぎった。

当然のことながら「いのちの重さ」には国籍も性別も宗教も関係ない。誰もが同等の生きる権利をもってこの世に生を授かるのだ。しかし残念なことに、生まれた後の人生は国籍や性別や宗教といったものに大きく左右される。

たまたま生まれた国が日本であれば、治療に数億円かかる病気であっても助かる可能性が与えられる。けど、たまたま生まれた国がミャンマーだったら、わずか20円のポリオワクチンさえ手に入れられない可能性がある。

たまたま生まれた国が日本であれば、多くの人が80歳近くまで生きられる。けど、たまたま生まれた国がシエラレオネだったら、多くの人が40歳を待たずしてこの世を去ることになる。

もし、一人の難病患者を救うために集まった2億1400万円という寄付金で1本20円のポリオワクチンを購入したとしたら、実に1070万人もの子供の命を救うことが出来る。こんなことを言うと、「1070万人を救うためなら、1人くらい犠牲になってもいいと言うのか?」という反論が聞こえてきそうだが、そんなに簡単に割り切れる問題ではない。

重要なのは、実際にこうやって数字を可視化することによって「どれだけのお金があれば、どれだけの命を救うことが出来るのか」を各人が意識することだと思う。そして、多くの日本人がこういったことを意識して募金を行うようになれば、少なからず「援助の偏り」も解消されていくのではないだろうか。

Proust Cafe: 余る支援物資
http://www.proustcafe.com/archives/2004/11/post_250.html
研修医日記 (仮) : 日本の移植医療
http://ptekuteku.exblog.jp/2965039

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