舞台装置

今日は久しぶりにカラっとした晴れ模様。

カウンターパートが、子供を病院に連れて行くからと早々に帰宅し、他の先生達もそれぞれの理由によりお昼前には帰ってしまったので、私も便乗して帰ることにした。

ということで、今日は久しぶりに昼から飲んだくれ。地元の中華料理屋で、私がフィリピンで一番ウマイと自賛するパンシット(フィリピン風焼きそば)をつまみにして、ビールをぐびぐび。

ハイウェイ沿いに忙しく行きかう人々を見ながら、しばし人間観察。買い物帰りのお母さんと子供、仲良く手をつないで歩くカップル、必要以上に厚化粧なバクラ(オカマ)、上半身裸で闊歩する小太りのおっさん。それぞれに、それぞれの人生があって、その日その時その瞬間にたまたまそこを歩いていたところを、私が目にしたという偶然を噛み締める。

中華系の店の主人は退屈そうにInquirer(地元タブロイド紙)を斜め読みし、アルバイトの女性たちはぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら豆の皮を剥いている。米の納品業者は淡々と俵を店内に運び込み、店の前につながれた番犬は声をからしながらも何かを伝えようと必死に鳴き叫ぶ。

私の視界に入ってくる全ての情景は、フィリピンという壮大なテーマを扱う演劇の舞台装置と化し、一つの物語を作り上げる。自分も本来ならボランティア要員Aという役名でその舞台に登場するはずなのだが、今日ばかりはディスプレイの外に一歩踏み出して、観客としてその一部始終を見届けたい気持ちにかられた。

もしも今この舞台にボランティア要員Aという役者が登場したら、この物語の結末は大きく変わったのだろうか?それとも、フィリピンの荘厳な動脈に飲み込まれて、そこにボランティア要員Aがいたという事実すら風化してしまうのだろうか?

熱すぎて口に運ぶことすらできなかったパンシットが、気付いたら冷たくなっていた。