松尾の世界

月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり

松尾芭蕉に対する文学的観点からの論評は、日本文学研究家に任せるとして、この場ではあいかわらず、超個人的見解としての「奥の細道」論を展開してみたい。

「人生とは旅である」という言葉は、今となってはごく一般的な文脈で用いられる常套句である。しかし、世界で始めてこの言葉を発したのは、恐らく松尾さんが始めてだろう(たぶんね)。まぁ、「旅」と言っても色々な種類がある。修学旅行のようなワクワクの旅もあれば、社員旅行のようなダルダルの旅もある。あいのりのようなラブラブな旅もあれば、失恋衝心バスツアーのようなズタズタの旅もある。

松尾さん的には、これら全ての意味を含有した意味での「旅」を人生と位置付けたのだろう。しかし、一般的に普段の生活を「日常」と呼ぶとしたら、旅は「非日常」と位置付けられる。そう考えると、松尾的理論では、この世に生を受けてから、灰になるまでの間、ずーっと「非日常」が続くのだ。

我思ふ。人生ってその大半が「日常」じゃね?というよりむしろ、日常の積み重ねが人生であって、非日常が人生に与える影響は、個人の差こそあれ、そんなに大きくないと思うのだ。

この理論が、かなーり屁理屈であるなんてことは、百も承知なのだが、自分も一生に一回でいいので「俳聖」ならぬ「理屈聖」と呼ばれてみたいと思いながら日々生きている。あんまり名誉な言葉じゃないが、「聖人」と呼ばれるほど、何かを極めるのってええと思うから。(この考え方自体が屁理屈)